難題に直面したらこう言い聞かせる
「小さな悟り」より
一休さんが最後に弟子たちに残した言葉
一休禅師が87歳で亡くなられた、その直前のこと。弟子たちに「この先、どうしても困ったことがあったら、この手紙を開けなさい」といって、一通の手紙を遺されました。その数年後、弟子たちが本当に困ったことになって「あの手紙を開けてみよう」となりました。そこに書かれていたのは
「心配するな、大丈夫、なんとかなる」
これほど心強いアドバイスはないでしょう。つい笑ってしまい、心配でいっぱいになっていた心がゆるむと同時に、本当になんとかなると思えてくるでしょう。
困難に見舞われた時、難題に直面した時、他人の心は非常にざわつきます。それを抑えないことには、頭の中で「どうしよう、どうしよう」が堂々巡りするだけ。であるからこそ、何よりも心を落ち着けることが大切なのです。
難しい局面を前に心配で心がいっぱいいっぱいになったら、笑いながら「なんとかなるさ」とつぶやきましょう。たいていのことはなんとかなるし、なんとかならないものは、どんなに努力してもなんともならないのです。だから心配は無用なのです。
「大丈夫、なんとかなる」と言葉をかけられて
ほっこりする、力み過ぎていた力が抜ける、ゆとりを取り戻す
こう受け止められるのも関係性によって違いもあると思う
自分自身の心もちによっても
気づき方や何とかなると思ってとる行動にも違いがあると思う
周囲の方々への態度の示し方にも違いがあると思う
何でも「大丈夫、何とかなる」と思い過ぎて
努力をした先の景色を知らずに
努力はしないという態度の人もいるかもしれない
ここでは、”どうしても困った”というタイミングと
一休禅師と弟子という関係性がポイントとも言える気がする
便利に使えるものは活用しようという加速する流れのままに
何でも「大丈夫、何とかなる」の乱用を推奨するものでもないとは思う
何とかなるのは、受け止める人、受け入れる人の心が豊に育っていく過程でその本質に気づけるのではないだろうか
最近、映画にもなった「線は、僕を描く」にこういう言葉があった
「どれだけできても、未熟だ、と言ってもらえるというのは、ありがたいことだよ。それこそが、信頼しているということなんだよ」
なんかそういう関係はとてもいいなと思いながら、恩師を思い出すのでした
昨日、仕事仲間だった若者たちと
Stand fmというアプリでコミュニケーションをとらせていただいた
これもなんと便利なツールだろうか・・・
その中で、他罰的な人が増えているというキーワードがあった
「大丈夫、何とかなる」も他人に求めるものでもない
受け入れられる心を持つ、その心を育てるということではないだろうか
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